我が子が学校から遠ざかりはじめてから、わたしに何が起こっていたのか?
きっかけになったと思われる先生のせいにすること、あの先生と出会わなければ…こうならなかったかもしれない。あの時に〇〇すればよかったのかも、〇〇のように育てていれば…こうならなかったかもしれない、と後悔すること。「きちんと子供を育てることができなかった」と自分を責めること。
赤ちゃんから育て直せるならやり直したい、子供が無邪気で可愛い笑顔で写っている写真を見ては涙をながし、同じ年頃の子供の登校する姿を見て『なぜここに我が子はいないの?』と思うと涙が溢れ、運転中このまま電柱にぶつかってしまおうか…、家をでて誰も知らないところへ行ってしまおうか…苦しさと悲しさのなかに埋没していた。
自分が予想していないようなことが起こると、素直にその現実を受け入れられないものだ。
誰かを責めて、自分を責めて、後悔して、悲しんで、苦しんで怒って….感情の海に身を投げて流されていく。
大事な可愛い子供には、自分の好きなことを見つけて自分の道を歩んでいって欲しい、と心から望んでいた。
その道がどんな道であっても応援したい、応援できるわたしでいたい、と思っていた。
でも、まだ中学生。
学校へ行けずに、ゲームやネットばかり。これが彼の道?
予想もしない速さで、この子は自分の道を選び始めたの?
どんな道であっても…と思っていたけれど、これは我が子が本当に望んでいる道ではないはず。
じゃあ、なんなの?どうなってしまうの?こんなはずじゃなかった。
不安と喪失感。
でも、感情に埋没するこの時間も必要だったんだ。
悲しみきる、落ち込みきる、泣ききる、苦しみきる。
わたしが勝手に思い描いていた我が子の成長した姿、幸せな姿、それを嬉しいと感じて子供を眺めている親の姿、そんな子供たちと夫と私の幸せな家族像。
それが幻想だったと別れを告げて、今起こっている現実を受け止めて歩み始めるためには、感情に流されてどうにもならない時間を過ごすことは必要たったんだ。
悲しみきった、落ち込みきった、泣ききったその疲れた果てたなかで気がついていく。
なんか違う。
こうしていることは何も生み出さない。誰も幸せにならない。
不安に思いながら、自分を責めることを続けながらも、どこかに光がある、なにか緒があるはず。
本を読み、ネットで情報を集め、いろいろな言葉を拾っていく。
「親が悲しむ姿を見ると、子供は悲しませた自分が悪いと自分を責める」「最も大事なのは親の自己受容」「親が自分の人生を生きること」「親が変われば子も変わる」
「ゲームはこどもの心の浮き輪」「こどもの安心を守る」「こどもをありのまま受け止める」
こんなことばたち。
こどもをどうこうしよう、という言葉はなかった。
私が悲しむ姿は子供を傷つけてる?そうだったんだ…(ごめんね)
わたしが自分に向き合うこと。
わたしが自分を受け入れること。
わたしが自分の人生をいきること。
わたしが幸せに生きること。
そうしてきたつもりだったけど、違ったのだろうか?
わたしの中ではそのつもりだった。
でも現実が違うと言っている。
こどもはそれを教えてくれているんだ。
身を挺して伝えているんだ、訴えているんだ。
そう思ったら、もう、自分に向き合うしかない。
他人は変えられない。
変えられるのは自分だけだもの。
(次回へ続く)