自分を大切にするということはどうすること?

自分を大切にするということはどうすること?

自分を大切にするとはどうすること?

と訊かれたら、あなたはなにを思い浮かべますか?

当時、わたしの頭に浮かんできたのは、

・自分の時間を取る

・カフェに行ってゆったり時間を過ごす

・疲れたらたっぷり寝る

・ときには贅沢する

・気に入ったものを買う

などでした。

でも、正直、なんだかしっくりこなかったんです。

本当かな〜?なんかちがうな〜

こういうことって「わがまま」と紙一重だな〜、という感覚もありました。

「自分のことを優先していいのかな?」みたいな罪悪感や、だれかに非難されているような感じもありました。


当時は、こんなことが自分を大切にすることだと思って、行動していたのでしょう。

そして、罪悪感やだれかに非難されているような後ろめたさを感じながらの行動だったのでしょう。


だから、

ゆっくりしたようでどこか急かされているような

満たされたようで満たされず

幸せなようでどこかそう言い切れない

曖昧な違和感が残っていたのかもしれない。


心の探求をすすめるなかで、

いろいろな気づきがありました。

気づきのプロセスで、

「自分を大切にするということは、自分の感情を大切にすること」

というわたしなりの答えに辿りつきました。

もちろん正解はありません。

今はこの考えを採用している、というと誤解がないかもしれません。


それまでのわたしは

自分の感情を大切にできなかったことが原因で嫌な思いをして、

拗ねたり、悲しんだり、泣いたり、怒ったりして、

そんな悲しみを与えたのはあなただ、と相手を責めたり、

時には、強がって相手への無関心を装ったりしていました。

自分の感情を大切に扱わないことで、相手を悲しませることや傷つけることもある、

ということを身をもって知りました。

それは、大切な人や近しい人との間にこそ

繰り返し起こっていたことに気がつきました。


これまで大切にしてこなかった感情のひとつは、

「NO」すなわち「いや!」という感情


場の雰囲気を感じて、「NO」や「いや!」と言えず、その言葉を呑み込んだり、

一度や二度は言葉にして伝えてみるものの、相手がそれを上回る勢いだと、言ってもダメだなと諦める。

そして結局、

相手の主張を受け入れる、

好まないことを引き受ける、

我慢する、

ということをしてきました。

わたしがはっきり「NO」と言い切れなかった、それだけなのに、

「押し付けられた」「わかってもらえなかった」と不満を抱き、

無意識に被害者となり、

ときに、

そのことで相手を悪く言ったり、責めたりして、

相手を動揺させたり、悲しませたりして、加害者となった。

被害者でいるうちは、可哀想なわたしでいられる。

居心地が良いわけではないのに、

なぜだろう?

長いことかわいそうなわたしで過ごしてきたな。

そういうわたしでいることで、人に頼ることができたり、守ってもらえたり、優しい人と思ってもらえたり、頼られたり、いいこともあったのかもしれない。


でも、あるとき、

わたしがひどく傷ついて悲しんだことがあった。

そのことで、相手をとても責めて、動揺させて悲しませてしまい、

ようやく、

わたしは嫌という気持ちを、言い切らなければならないんじゃないか?

「いや」と言い切る、「いや」という感情をちゃんと伝えきって譲らない!

可哀想な自分でいることを止めよう、と決めることができた。


あとに「被害者となって加害者となる」とはるちゃんが言ったときに、

自分の体験も重なり合って、この構造を本当にそうだなと認識した。


「いや」を言い切る強さをもつことは、自分を守ることになる。

すなわち、相手と自分の力の及ぶ範囲を分けることができる。

相手を否定するのとは違う。

相手にそっと押し戻す、受け取らないということ。

その強さを持てない時、

自分の砦は破られ、

相手の侵入を許してしまう。

侵入されて、自分という城は傷つく。

そしてときに、仕返しをするかのように相手を攻撃する。

「いや」という感情を大切に扱うことは、自分を守ることでもあり同時に相手のことを大切にすることではなだろうか?

それを認識していないと、「断るのは申し訳ない」とか「断りにくい」という勘違いの理由で、受け入れてしまうことになる。

そうではなく、
相手にお返しして受け取らないことだ。


一方で、

嫌だけれど、納得はいかないけれど、「引き受ける」と腹を括って決めて、受け取ることがあってもいい。

嫌と言い切ってその気持ちを譲らない、とかいたばかりだが、

そこは、選択だ。

「NO」という選択と「受け入れる」という選択肢がそれぞれあって、

どちらを選ぶ?と自分に問いかけて、己の意思で「受け入れる」を選ぶのであればいい。

自分が選択したなら、そもそも被害者にはならない。

その結果起こる感情や出来事に対して責任をとればいいだけ。

相手を責めたり、相手のせいにすることはないだろう。

断れない自分のまま、「NO」という選択肢があいまいなままで受け入れてしまうのが良くないだけ。



小さい頃から結構な歳になるまで、

母とわたしの境界線は曖昧だった。

わたしの砦は脆かった。

断ることができず、「NO」を主張することができずに侵入されて嫌な思いをしてきた。

高校で部活をしてはいけない、〇〇大学へ出願したらいい、何歳までに結婚する、お見合いをして、…….e.t.c.


そして、結婚して母との距離が離れてからは、

その関係性が、夫とわたしの関係にそのままシフトして、

夫とわたしの境界は曖昧になっていた。

心の学びのプロセスで、そのことにも気がつくことができた。

自分の「いや」という感情を大切に扱えるようになったら、

本当に不思議なことだが、信じられないようなことが起こった。

びっくりするくらいに、

まず、我が子たちの「いや」という気持ちがわかるようになった。

「あ〜いやなんだね」「やりたくないんだね」「いま嫌だって感じたね」

いろいろな行動を裏付ける子どもたちの「やりたくない」「いや」という心の動きを

子供が言葉で伝えなくても、表情や仕草から感じ取れるようになった。

そして、こどもたちの「したくない」「いや」という気持ちを受け入れ、やらないという行動も受け止めることができるようになった。

それまでは、『いやでもやりなさい』と多少なりとも無理矢理に押し通してきたな〜。


人は、
自分の感情を大切にすることができて、はじめて人の感情も大切にすることができるようになる。

自分の感情を気持ちを大切にすることが先なの。

自分の気持ちをないことにして、人の気持ちや、まわりを優先すると、
次第に無理が生じてくるものだ。

自分の感情に気づいて、認めて大切に扱って欲しい。

それは、自分に対して最大の愛であり慈しむ行為だ。

不思議だが、自分の感情を大切に扱うことで、

自然にあたりまえに、

周りの人のことも愛で照らし慈しむことになるよ。

「いや」という感情をどのように扱っているかな?

自分に問いをたててみてね。


これまで大切にしてこなかったもうひとつの感情、

「〜したい」という願望

へつづく



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